キーボードを打つ手を止めて、前屈みの姿勢から椅子の背凭れに身を預けるようにして背を伸ばした。 長時間同じ姿勢を強いられた為にひどく強張っていた身体が、あちこちで軽く痛みを訴える。 小さく息を吐いてそれらを無視すると、カタギリは傍らに置いていた白いマグカップに手を伸ばした。 口に含むと、すっかり冷めてしまっているコーヒーの苦味が舌につく。 それでも柔和な印象の細面に浮かんだ微笑を崩すこと無く、カタギリは青白い光を放つモニタを眺めた。 「・・・やっぱりはかどるなぁ・・・」 所狭しと機材の並べられた(というより無秩序に詰め込まれた)薄暗い部屋に、今はカタギリを除いて人の姿は見られない。 無機物を前に気の抜けた声で独り言を零しながら、カタギリは今頃遥か遠くの空を飛行しているであろう人物の面影を思い浮かべた。 自らを我慢弱いと評する、実際カタギリの目には相当落ち着き無く映る年下の上司・・・グラハム・エーカー中尉がガンダム調査隊の拠点があるMSWADの本部を離れて3日目になる。 あまりに記憶に焼き付けられた印象が鮮烈過ぎて彼のことを思うと今にも背後から現れそうな錯覚に陥りそうになるが、いかにグラハムが驚異的な諸般の能力を有していても、そして常人には予測不可能な突飛極まりない行動理念をもっていたとしても、軍人に与えられた辞令と物理的な距離を一瞬で超えて来るのは不可能だ。 よって、カタギリは突然のグラハムの強襲を受けることも無く。 「あぁ・・・平和だなぁ・・・」 警戒心の欠片もない表情でコーヒーを飲んでいられるのである。 ガンダムが現れる以前、カタギリとグラハムは技術者とパイロットという明確な立場の違いから、仕事上の接点はMSの調整や開発に関わることに限られていた。 何週間、何ヶ月と顔を見ないということも稀ではなかったし、だからといって特に不都合を感じていたわけでもない。 オフタイムに飲みに出て最新MSや、太陽光紛争以後目まぐるしく変動する世界情勢について熱っぽく語り合うこともないでもなかったが、今に比べれば頻度はずっと低かった。 それがガンダム調査隊に召集されてから、一日と空けずに顔を合わせている。 任務上の必要性から共に行動することも多いが、非番の日にまでグラハムのガンダム談議に夜通し付き合わされたり、理不尽な理由によることも何故か多い。 端正な面を持つグラハムは貴公子然としていながら元々根の部分では暑苦しい人間ではあったのだが、ガンダムに出会ってからはそれが顕著に表れるようになってきているような気がする。 良く言えば、前向きで、意欲的 逆を言えば向こう見ずで、傍迷惑 部下の前ではまだ分別のある、自制の効いた姿を見せているが、それが彼にとってどれほど多大な努力の結果によるものか、カタギリには容易に想像がついてしまう。 ついてしまうほどに、共に行動している時間が長いということだ。 そんな環境に慣れてしまえば、しばらくの間とはいえグラハムが同じ施設内に居ない状況が続くというのはひどく珍しいことのように思えてくる。 仮眠中に叩き起こされることも無く (仕事道具の頭を叩くのは止めていただきたい) 集中していて呼びかけに気付かなかったからといって背後から髪を引っ張られることもなく (引っこ抜く勢いで引っ張るのは将来的に色々危険が) 好みの甘さに調整されたコーヒーとブラックをすり替えられる事も無く (まだ糖尿の心配はいらない) いつの間にかベッドに潜り込まれていることも、そして寝相の悪いグラハムに床に蹴落とされることも、ない。 (何故にそんな状況に陥るような関係になってしまったのかについては今は言及しないけれど) 実に、平和な状況である。 流れる時間が穏やか過ぎて眠くも無いのに欠伸が出そうだ。 この調子で行くとグラハムが帰ってくる頃には、頭に花が咲いているかもしれない。 「まぁ、一週間なんてあっという間なんだけどね・・・」 声に苦笑の色が混ざってしまったのは、たった七日間の不在を思うだけでこうも神経が緩んでしまう自分に呆れてしまったからだ。 グラハム自身は他人に緊張を強いるような人間では(多分、)ないのだが、カタギリにとってグラハムは良くも悪くも日常を掻き回してくれる存在であって。 さもすれば停滞しがちな生活に快い刺激を与えてくれるのは結構だが、当然自分のペースで行動したいときもある。 グラハムは常に全力疾走をしているようなエネルギッシュな存在だから、退役後は縁側で日向ぼっこをしながら猫を撫でていたいと(疲れていると特に)夢想してしまうようなカタギリにとっては時に眩過ぎると感じることがあるのである。 あと4日か・・・と口をついて出かけた言葉を、カタギリは冷めたコーヒーと一緒に飲み下した。 格納庫へと続く通路を、足早に歩く。 気が急いているのは手土産に持ち帰った情報を早く彼に渡したかったからだ。 端末から中身だけ送信したのでは味気ないと思いチップをそのままポケットに滑り込ませて持ち帰ってきてしまった。 プライベートでは通信もままならないような僻地から帰還したのだから、少しは綻んだ顔が見たい。 普段から顔に張り付いているような、人の良い笑顔ではなくて。 「カタギリは居るか!」 扉がスライドしたと同時に声を上げると、その場に居た全員が一斉にグラハムを振り返った。 その突き刺さるような視線に、肝の据わったグラハムも一瞬、たじろぐ。 「・・・お待ちしてました、中尉!」 駆け寄ってきたエンジニアのひとりが、がっしとグラハムの右手を掴み取る。 真新しい作業着にまだ着られている印象のある若い技師だ。よくカタギリの傍について作業していた姿を、グラハムは思い出した。 不躾に利き手を取られていたなら反射的に振り払っただろうが、そうではなかったのと、どこか切羽詰ったような表情でグラハムを見上げる大きな瞳に気圧されて(このグラハム・エーカーが!)反応が遅れてしまった。 気付いたときには、数人に取り囲まれている。 その中のひとりに背中を押されて、無理やり格納庫の奥へと歩かされた。 捕縛されたままの右腕も、技師にしておくには惜しいほどの強さで引っ張られる。 「いや、ちょっと待ってくれ、一体何が」 あり得ない事に、グラハムの勘違いでなければこれは歓迎ムードだ。 誰も彼もが待ちわびていた、というような表情でグラハムを見つめている。 普段、カタギリに無茶な注文をつけては不眠不休で働かせる(無茶を言っているのは事実だがグラハムとしてはカタギリに無理をさせようなどという気は毛頭ない、)わがままなパイロットの来訪を苦々しく、かつ複雑な表情で出迎える彼らが、今は一致団結してグラハムを歓迎(?)している。 気難しい技術屋が手を取り合って喜んでいる姿を見た時には誰の白昼夢に迷い込んだのかと思った。(自分とは思いたくない) 一週間留守にしていた間に、世界は変わってしまったのだろうか? 何だかとんでもなく嫌な感じにハッピーな方向へ。 「中尉が居なくて、本当に大変だったんですよ!」 「あの人が動かないとここの機能完全に止まっちまいますから・・・」 「予定が延びるようなことがあったら軍の上層部に掛け合おうかと相談していたところだったんです」 恐ろしいことをあっさり言ってくれる青年の言葉に、危うく問題の一言をスルーしてしまうところだった。 「・・・カタギリが、どうかしたのか?」 半ば強制的に連れてこられたのは、カタギリやグラハムもたまに利用している仮眠ブースの入り口だ。 突然舞い降りた沈黙に、閉ざされたままの扉がいやに冷ややかにグラハムの目に映る。 重々しい雰囲気を纏い、グラハムの手を取ったまま、まだ子供のようなあどけない容姿をもつ青年は他のメンバーの表情を満遍なく見回してから、口を開いた。 「現在、ビリー・カタギリ技術顧問はグラハム・エーカー中尉不足による障害で完全にシステムダウンしています。 ドーナツや可愛い小動物を用意して気を引いてみたんですが、再起動もままならない状態でして・・・」 「・・・・・・・・・」 「端的に言うと、電池切れです」 何の冗談だ、それは |